『選択をしない』選択をしていることが最大の心配

ちょっと後輩と話してた時に気になったことをまとめとく.若い人にちょっとだけ読んでほしい.

僕は早稲田大学基幹理工学部表現工学科の尾形研究室で研究員をしている。この研究室は、今流行のニューラルネットワークを使ったロボットの知能について研究している研究室だ。教授は40代だがこの分野に腰を据えて20年研究してる、傑物だと思ってる。
この学科は表現工学科というところで、英語にするとDepartment of Intermedia Art and Scienceとなり、メディアアートと科学の融合というのがキーワードなんだが、できたばかりの学科なので、「表現工学」とは何か?という問いにチャレンジしている最中の学科で、学生は何か実のある授業を受けられているか、というと、機械工学のように歴史のある学科に比べると、率直に貧しいな、と思わせる。いろいろなことを知ることは大事だけど。その辺は学生も感じているところで、この学科に来ちゃったけど、どうしよう・・・という学生も少なくない。とはいえ、メディアアートはメディアへの露出機会も多く、人気の学科だ。

昨日はコーヒーが飲みたくなって、後輩とカフェに行き、まあ、今後どうするかってことについて、ざっと話したんだが、思ったことをすこしメモしておく。

その子は、間違いなく優秀だ。論理的思考や推論ができ、抽象的な話題にもついてくる。技術力もあり、プログラミングのいろはを理解している。もちろん、大学生レベル、ではあるが優秀だと思う。趣味も多趣味だ。

学生に工学の仕事は向いているんだろうか?と聞かれたら。

話は将来のことになり、これ(工学)は学生さんに向いているんだろうか?という話になった。僕は「向いていなくはない」と正直に答えた。
「向いている」という結論を出せる人間は一握りだし、ここでそう答えるのは正直ではないと思う。僕自身、エンジニアという仕事が向いているかどうか、は一生かけて検証していくことだと思っている。

たしか誰かが、「え?この程度のことでお金をもらっていいんですか?と思える仕事が向いている仕事だよ」と言っていたが、その意味では僕は向いていると思う。息を吸う、息を吐く、美味い飯を食う、プログラミングする、ロボット作る、勉強する、ほどほどに寝る、そういう生活が好きだ。
まあ、この定義は一つの指標として優秀だとおもうが、これだけではないと思う。

この話をすると、そこまで向いていないかもしれない・・・と言っていたけど、正直、アイディアを自由に形にする技術がプログラミングだと思うので、それを実感するにはたぶん、あと1・2年はかかる、と思う。
今やっと、まとまった規模のアプリケーションを作れそう、なレベルだから。その時点で見切るのはもったいないと思う。外から見てると、今の所、順調に育ってる気がしているし。

その学生さんの一番の趣味は、とあるアウトドアアクティビティーで、僕もインラインスケートをしていたから、共感するところが大きい。かなり好きらしいんだが、場所を選ぶスポーツなので、もっとやりたくても、なかなかできないというのが現状のようだ。
そんなに好きならそのスポーツで生計を立てることを考えないの?と言ったら、食えない可能性が高いし、向いていないかもしれない、ということ。

向いているってなんなんだろうね。そして、向いていないかもしれないって何なんだろうね。

僕が若い学生たちについて最も心配していることは、彼らが知らず知らずのうちに「『選択しない』という選択をすることによって、選択肢を狭めている」ということだ。
若い時は選択肢をたくさん持つために、勉強をして、受験戦争に勝ち上がって、早稲田大学に来たんだろう。そもそも基幹理工学部ってのは早大の理工系で唯一、学部一括で入って、2年次に学科振り分けをする学部で、(今はコース選択になって選択肢は狭まったが)そこでも選択肢を残す選択をした人たちだ。
さらに表現工学科は、工学科でありながらその専門は、メディアアート、哲学、絵画、作曲、ロボット、音声情報処理、人工現実感と様々だ。つまり、そこでも選択肢を残す選択をした学生も多い。

選択肢を残そうとする選択は若い時にはいいかもしれない。だが、その中で自分の特性を見つめて専門性を伸ばそうとする事を先延ばしにしてないだろうか。たいていの分野ではこの選択を早く行った方が有利だ。僕自身のポリシーとしても、「何事も、その一事にかけた時間が結果につながる」と思っているので、選択は早い方がいい。そう、正しい選択をするよりも、早く選択をする方が重要だとさえ思う。

もちろん、悩む事は悪いことではない。ただ、22歳という年齢は、本人が思っているよりもかなり切羽詰っている。そこから始めても出来ないことが一気に増え始める。その中で、「この分野では一流になれないかもしれない。勝てないかもしれない」という考えから、立場を明確にするのを先延ばしにしているのは、あまり良い傾向に見えなかった。

生きる道は一つじゃない、の僕なりの意味。

一番にならないといけないのか。

某議員の嫌な言葉ではある。一番を目指そう、と言っているときに水を差す言葉だ。だけど、勝てないかもしれないから、それに全力を尽くさない、という人に、どういう言葉をかけるか考えたときに、僕はこういう言葉を贈る。
特定の分野で生きて行くためには、一定以上の技量を有していれば、次はオンリーワンになることが重要だと思う。そしてオンリーワンになることは以外と簡単かもしれない。
例えば僕だが、生業の中心としてはロボット用のソフトウェア開発ではあるが、バックグラウンドは機械工学であり、ロボットまわり全般をやってきた関係でメカの図面から配線、電子回路、組み込み関連、博士号とるまでの知識や理論体系に関する理解、ウェブ、ロボット用ミドルウェアなどなど、複合的な部分で僕のことを認めてもらい、仕事を頂ける場合が多い。以前は海外のロボットの代理店で仕事をしていて、販売されるレベルの研究開発用ロボットのパッケージング(ソフトウェア、ハードウェア、サポート等もすべて含め)という部分にも詳しくなった。インラインスケートをしてる、というのも話題になったり、変な縁があったりする。大学の助手をやっていて、講義・講演などもやれるのも一つだ。僕を取り巻く様々な歴史が、たった一人の僕自身を作っている。
また、インラインスケートの協会で理事をしたり、ボランティアをしたので、プロスポーツの経験がある人の話を聞いたことがある。彼は、「僕よりもこのスポーツが上手いやつは沢山いる。でも、プロとしてやっていくことは、もちろんスポーツが上手いことは最低条件だが、それと同時に、いろんなスポンサーにプロとしての価値を提供できるか、が重要である。」と言っていた。確かにその通りだ。生きていく方法は一つじゃない。

一番になれないかもしれない、という状態をどう感じるか。

そこにも違和感を感じた。学生さんは、トップクラスの大会の選手と話したことがあるらしい。その選手は7年でそのレベルまで達したんだそうだ。自分は3年やっていて、あと4年でそのレベルまで行けるかどうかわからない、だそうだ。そりゃそうだ。未来のことはだれもわからない。んで、そこで、どう思います?と聞かれた。僕の答えは「できると思うよ」だ。ちょっと無責任な言葉だが、やれる可能性がある、という状態をどう取るか、学生さんと僕との間で違いが大きいと感じた。やれないとわからない限りはやれる、と僕は思っている。そしてそれが好きなら、打ち込む価値はあるし、一番になれなくても、生きて行く道はあるんだ。でも、何もかも中途半端な打ち込み具合だったら、結果として何もできない人になるかもしれないよ、と思う。趣味は趣味として、程よい距離で続けるのもいいだろう。だったら、ほかのうち込める何かを探したほうがいいよ、と。そして、それを見つけるための時間はかなり限られている。

よく「才能がない」と嘆く学生を見かけるが、それは殊にものづくりに関しては、間違いだ。ただ、かけた時間の分だけ必ず返ってくる。「勉強」と同じだと思う。
研究者という職業には異なる才能がある、と思うかもしれないが、彼らも論文のサーベイなど情報収集に多くの時間をかけており、多くの知識が独創的なアイディアを創出しているように見える。それを才能の一言で終わらせるのは彼らに対する侮辱にすら聞こえる。学生さんには、もしこの道について知りたかったら、覚悟をして時間を掛けてみなさい、と、その一言しか言えない。

ああ、その学生さんは、繰り返すけど、本当に優秀だと思っている。なので、どんな選択でも選択したのならそれは応援しますよ、と最後に締めくくった。たぶん、僕の応援なんか要らないだろう。自分で歩いていける勤勉さを身につけている。どんな場所に行ってもちゃんと評価される仕事ができる人間になれるだろうと思う。

最初からジェネラリストを目指すのは大丈夫なのか。

一時期、コミュニケーションという言葉がもてはやされて、博士教育ですら「コミュニケーション」という言葉が言われるようになった。最近もその言葉を耳にする。ジェネラリスト教育を公言する先生もいた。おいおい、と思ったもんだ。ロボット屋として、まあ、外から見たらロボットのスペシャリストなんだろうが、同期の材料や流体制御の助手に比べてジェネラリスト色が強い自分に情けなさを感じていたのもあったが、とにかく博士教育はスペシャリスト教育だと思っている。スペシャリストは本当に面白い。ある友人は、僕が買った最新型のVAIOに食らいつき、見せてくれ、と言われたので渡したら、「これ、カーボン?マグネシウム?」という話題が始まってどう加工したのか、とか、彼自身の研究テーマであるマグネシウム切削技術について話が始まった。CPUとかじゃないの?と思ったが(笑)、本当に面白かった。社会に出ると、やたらといろんなことに詳しいだけの人がいて、何で食ってるのかよくわからないんだが、そういう人はいる。そういう人たちからは、そのほとばしる情熱を感じない。そういう人間を増やしたいんだろうか、と思うことがよくある。そういう人間はほんのわずかいればいい。世界の潤滑油ではある。
だから博士には、広い視点で・・・とは言わず、周囲の雑音を減らして、ひたすら深い穴を掘る作業を3年間繰り返して欲しいと思っている。深い穴を掘れば、広い穴を掘ることになる。ちょっと変な人になっても全く構わないと思う。コミュ症の問題は、タイミングにはずれがあるが、時間が解決してくれる気がする。僕がそうだったから(いや、まだコミュ症かもしれないが、どうでしょう?>僕を知っている人たち)。

可能性を感じる、表現工学

表現工学科は、まさしく、ジェネラリスト教育だろう。音楽、絵画、映画映像表現、信号処理、ロボティクス、なんでもやる。でも、どれも中途半端だ。もちろん、3年次に研究室に入ればスペシャリスト教育を受け始めるのだが、遅きに逸している部分も否めない。今からこの勉強始めるの?と思う部分が多い。
でも学部生、M1くらいまでは広く学ぶのも手だ。これが好きだ、と思えるものに出会えるかもしれないし、工学分野だとお、隣の領域に片足、というかつま先くらいは突っ込んでおいたほうが良いことは沢山ある。
表現工学科でも可能性は感じることがあった。最初に尾形研究室に来た2人の学生。一人は博士課程に進学したが、この二人について技術力は散々なものだったが、関心したのは、白いキャンバスに筆を入れる勇気を持っているということ。

自由にやってごらん、といって白いキャンバスに絵を描ける人間は一握りだ。人によっては、罫線を引いてやるだけで何かを書き始める人もいるし、枠取りをした上で色を塗りつぶし始める人もいるし、色指定しないと手が動かない学生もいる。彼ら二人は、白いキャンバスに絵を書き始める能力があった。その後、すべての学生がそういうわけではない、と認識したが、その学生達の勇気を裏打ちするものが何なのか、興味がある。工学分野以外の教育がそうさせたんだろうか。興味深い。エンジニアリングの知識がありながら、白いキャンバスに筆をいれられる人間をもう少し増やせたら、社会にとって有意義だと思う。

人生は制限時間付きの選択問題だ

とはいえ、選択肢を残そうという選択には弊害も多いと思う。特に、それまでの人生に引き続き、二十歳越してからも選択肢を残そうと躍起になり、結果として「選択しなかった」という選択をした人間は、世界を恨むかもしれない。人生は制限時間付きの選択問題で、選択しない、という選択をした事実は大概、時間切れ、になって初めて露見する。その時、選択した主体は自分、なのだが、世界であり環境である、と考える傾向があるように見える。
後悔しないためには、世界を恨まないで生きるためには、「選択をしない」という選択をした、ということも意識して人生を送って欲しいと思う。